日々のぼんやり

何か書いてみる。書いてから考える。

交差する時間の中で

ふと思った。

こうしてブログを更新してしまうのは、誰かと話をしたいからじゃないのだろうか。

読書記録が進まないのは、がらにもなく理系の本を読んでいるからだけれども、だからと言ってブログを書く理由にはつながらない。

言葉にしたいのは、何か別のものがあるわけでも無いような気がする。

声高に何か主張して誰かに認められたいわけでもないだろうし、誰かの考えを変えたいわけでもないだろう。

じゃあ、大人しくしてればいいじゃん、という事でもないのがちょっと厄介なところで、ここにはいない誰かに話しかけているような気がする。

それが具体的な誰かではない。

身の回りにいる誰かでもないけれど、もしかすると、過去に存在した誰かなのかもしれない。

私たちは非常に移ろいやすい存在だから、過去に存在した誰かは、すでに別の誰かに変わってしまっている。

けれども、ここにいる私は変わっていないつもりで、あの時の誰かに話しかけていいるのではないだろうか。

いまここの私の時間と、いまそこにいる誰かの時間は、別に流れている。

ただ、言葉を交わすことで、互いの時間は交差する。

では、一人で言葉を紡いでいくことは、誰の時間と交差しているという事になるのだろうか。

もしかすると、未知の誰かなのかもしれないけれど、それは神秘主義に偏ってしまっているような気がするので、既知の誰か、すなわち記憶の中に存在する、あの時の誰かの時間と交差しているつもりなのだろう。

実際は時間など流れていないし、あの時の誰かなど、いまここには存在しない。

本来ならば想像の中のコトと、現実の中のコトは、峻別されるべきなのかもしれないが、敢えて取り違えることで言葉を紡ぎ出すことができているのかもしれない。

 

※今回もAIにタイトルを考えてもらった

自我と進化: 未来のAI社会

最近、様々なことがあったけれど、実際はそんなに大したこともないような気もする。

時系列に書いてもしようがないし、事細かに説明したいことでもないし、それに詳しく書いてしまうと差し障りもありそうだと思ってしまう。

だからと言って、どこにも吐き出さずにいるのは、あまり精神衛生上よろしく無いので、書き始めてみる。

そんなに親しいわけでもないが、ほぼ同年代の同僚がメンタルで休んでいるのを人づてに聞いてはいたのだけれど、その方(年上なのでね)から連絡がきた。

その方にとって、相談し易い人間だと、たぶん思われている。

相談内容はともかく、自分のパブリックイメージってどうなんだろうか。

言葉にすると自意識過剰のティーンエイジャーのようだが、実際、微かな違和感がある。

なぜ相談されるのだろうか。

若い頃は全く相談なんてされなかったし、人の噂から遠い所で、霞でも食っているかのように暮らしていた。

同期の人間関係や恋愛事情、退職予定など、差し迫った頃や事後に知ったものだった。

実際のところ、苦手だし、親身になれる自信もないし、適切なアドバイスを与えられるとも思えなかったので、まぁ、そういうものだと思っていた。

ところがたまに相談をされることがある。

ここ10年ぐらいで数件といった、交通事故よりは頻度が高いけれど、傘を忘れた日に雨に降られるより確率は低い。

なので相談されることに違和感が拭えない。

相談してくる相手が女性ではないので、基本的な属性は変わっていないのだろう。

たぶん相談しがいのない人なんだと思うし、自分でもそう思う。

ちょっと前に、AIに相談して自殺をしちゃったというニュースがあったけれど、既にAIに負けているような気がする。

これがシンギュラリティってやつだろうか。

果たしてAIより優れているものが、まだ自分には残っているだろうか、とも考えるが、本当にどうでもいいと思っているので真面目に考える気にもならない。

物事はできる人がやればいいし、人間がやらなくても機械ができるんだったら機械に任せちゃった方が間違いがないんじゃないだろうか。

そう思うと、人間としての良心との葛藤という戦争映画のテーマは、もう昔話の中にしか描くことはできなくなるだろう。

たぶん相手を絶滅するまで徹底的に破壊することは、機械の方が上手くやる。

近未来の世界を描く物語は、優れたAIと間違いのない機械に依って、秩序が保たれたクリーンな世界で、人間のバグを笑うスラップスティックになっていくのではないかな。

10年後にこの文章を思い出して、自分を笑うかもしれない。

 

(タイトルはAIに考えてもらった)

RPG会社

リアルな昔話をするのは、若者には真似できない老人の特権だというので、臆面もなくしてみる。

それはみんなが聞きたい話かどうかは知らない。

学生から社会人になったからといって、社会の何が分かっているのかというとさっぱり分かっていなくて、バイトで立場が人の言うことは聞くものだということは何となく分かっていたので、会社というところでも上司という人たちの言うことにはとりあえず聞いておくことにした。

会社というものに潜り込むためには入社試験というのがあって、大学で学んだこととは全く関係の無い、一般知識的なものや知能試験的なものでふるいにかけられるのだけれど、それで落ちた奴というのは聞いたことが無い。

その後、段階を追った面接があって潜り込むことができたのだけれど、自分のあずかり知らないところでふるいにかけられているという仕組みは、たぶん選ばれた人という意識を育てるための仕掛けなのだろう。

なぜ自分が選ばれたのか、ということよりも、選ばれたのだから期待に応えなければいけない、というゲームが始まるのが、会社というフィールドでのルールの一つらしい。

そんなルールは知らされることも無いし、もしかしたら各ステージにいる先輩、上司といった登場人物たちと会話をすることで、手に入れることができるかもしれない。

社会人になって会社で働く、ということは、各ステージで登場人物たちと会話して、アイテムを集めて、敵キャラを倒していく、というRPG世界だと考えても良いかもしれない。

敵キャラが何かは知らない。

自分の場合、そんな風に教えてくれる人がいなかったので、とりあえずアイテム集めをしていたような気がする。

資格試験に合格し、アイテムを身につけていったが、あまりステージは変わっていなかったのは、倒すべき敵キャラを見ていなかったし、重要そうな登場人物たちと会話をしていなかったように思う。

それがダメだとか、失敗した、と言っているわけではなくて、RPG会社をそんな風に楽しんでいたという昔話だ。

それに、その頃の業界的に個人スキルを身につけて、市場価値を高めようという呪文が流行っていた。

市場価値って何だよ、それで何がしたいんだ、という質問は受け付けない。

とりあえずコインゲットしていかないと、RPG会社は続いていかない。

RPG会社のルールメーカーがどこにいるのか知らない。

選ばれた勇者たちは、チームを組んでRPG会社の中で活躍することを求められる。

チームは無作為に選ばれているかというとそんなこともなく、どうやらコネのようなものが影響しているらしい。

俺あいつ知っている、的なコネ。

だいぶ長い間、知り合いに仕事を回す的なことは悪徳だ、という風潮があったように記憶している。

汚職事件やら何やらが喧伝されて、公平であること、透明性が高いことが美徳だというルールが何となくあったような気がしている。

だがいつの間にか、そのルールは書き換えられている。

当事者間で納得があれば良くて、コネや人脈があることが、個人スキルの中に組み入れれて、市場価値という曖昧なものより、手っ取り早く金のなる木が求められているように思う。

そんな話、社会人になったばかりの当時の自分は耳を傾けたかというと、絶対に聞かない。

誰かに聞かせてくれと言われたことも無い。

だが、もしかするとRPG会社に入ろうとしている勇者や、出口の分からないステージで彷徨っている勇者がいたら、この話は役に立つだろうか。

役に立つかどうかは分からないけれど、モブキャラのつぶやき程度にでも書いておこうと思った。

昔話は老人の特権だからな。

そこにある何か

どこから話を始めればいいか分からないけれど、当たり障りのない話から始めるスキルがいつの間にか身についてしまっている。

当たり障りのない話から始めてしまうので、いつまでも本題に辿り着けずに、話は周辺を彷徨っている。

話が上手いわけでもないし、コミュニケーション好きなわけでもない。

話している自分だけがもどかしい思いをしているし、話されている相手はこいつは何が話したいんだろうと思っている(と想像している)。

話せば話すほど上滑って行く感じが居心地が悪い。

居心地の悪さを埋めるようにまた、当たり障りのない話を重ねてしまう。

そうして悪循環が続いてゆく。

だが改めて話したいことを話してみよ、と言われたとしても、どこから話して良いものか判っていないのだから、やっぱり当たり障りのない話を始めてしまうことは眼に見えている。

そうしてつまらないことに、時間を費やしてしまい、そのことを後悔することになる。

しなくていい後悔なのか、無駄な時間を費やしていたのか、それは分からない。

だが言えなかった何かがそこには残されたままだ。

それは端的に言ってしまえば、不満だったり愚痴だったりするのだけれど、それは話すことで解消するようなものではないと思っている。

話してしまえばチャラになるものでもないし、その不満や愚痴の原因はそのまま残っているし、その原因を解決したいと考えているわけでもない。

話して分かって欲しいわけでもないし、誰かの共感を得たいわけでもない。

つくづく面倒くさい奴だな、と自分のことを思ったりもする。

つい最近もそんなことがあったので書き始めてみたものの、まだどこから書いたらいいものか躊躇している。

ぐいっと直截な言葉でそいつを掴んで、叩きつけるように言葉を吐き出しても、果たしてそれが言いたかったことなのか、ちょっと自信がない。

注意深くそいつを水槽の端に追い込んで、下から掬うように捕まえなければ逃げてしまうのだと思う。

だからその話はまた今度にしよう。

なぜ酒を呑むのか

酒を呑まない知人がいる。

深くは聞かないけれど、やめたと言うのだから、思うところがあるのだろう。

自分は酒を呑みたい方の人である。

だが、なぜ呑みたいのかを考えだすと、良く分からなくなってくる。

例えば、定期検診や人間ドックの前には呑まないでいることもできるし、例えば毎日のお茶の代わりのように吞んでいられるかというとそういうことではない。

吞まなきゃやってられない、という決まり文句があるけれど、そういうカスのような状況で飲む酒が美味い訳はない。

日々の腹の立つこと、不条理なこと、プレッシャー、混迷など、ただ過ごしていくだけで溜まっていくストレスの捌け口として酒を呑んでいるのかというと、それは違うような気がする。

酒を呑むときに美味しいなぁと思っているが、本当に美味しい酒はそれなりの値段を払わないと味わえないし、本当に美味しい酒をいつでも呑みたいということでもない。

ただ、酒が呑みたいな、と思う時がある。

何かの代替ということではなく、ただ単に吞みたいのだと思う。

前は誰かと呑みに行くということが好きなのだと思っていたけれど、独りで呑みに行くようになって、ただ単に呑みたいと思っている自分に気がついた。

グルメ気取りで美味しいものを求めているということは無いが、それなりに気に入った料理がある店は何度も行ってしまう。

何度も行ってしまうけれど、そこを自分の場所としたいわけではない。

誰かを非難しているわけではないけれど、常連の顔をして座っているのは趣味ではない。

何となくふらっと行って、空いてる席に座って(もしくは隙間に立って)、周りの声に聞くとは無しに聞きながら、TVがあればTVを眺めたり、窓があれば窓の外を眺めたりそんなことがしたいのだと思う。

それで思い出したが、呑み屋で外を歩いている人を眺めていたら、釣られて入ってきたっぽい人がいた。

独りでぼんやりしている酔っぱらいのおっさんに釣られて呑みに行こうと思う人なんているのだろうか。

そんなことを考えた久しぶりの二日酔いの日である。

悪癖

無くて七癖、とか言うけれど、人それぞれの癖を挙げていったら切りがない。

個人的な癖は勝手にやっとけ、ってことで良いと思うんだけど、集団で培ってる癖は始末が悪い。

人は自分の癖に気がつかないものだが、集団になってもそれは変わらず、当たり前のように繰り返しているメンバー、居心地の悪さを感じながらも従っているメンバー、理不尽さを感じて腹を立てているメンバー、そんなモザイク状態でも癖は止められなくなっている、なんてことを想像している。

様々なレベルの集団があって、様々な癖が渦巻いていて、そんな波をうまく乗りこなした奴が出世していったり、目立っていったりするのかもしれない。

なんてことを思っている時点で、そんな癖には違和感を感じている自分がいる。

例えば、一生学びだとか、リスキリングだとか、いう言葉でも表されてきている成長神話がある。

口当たりの良い言葉で言いかえているけれど、要するに絶えず自分を更新し続けて、右肩上がりに自己実現をするということが言いたいのだろうけれど、じゃあ今までは何だったんだよ、そんなに積み上げて世界の偉人でも目指せってことですか、って毒づきたくもなる。

成長だとか、自己実現なんてのは、方便の一つで、今までのは無しね、ハイ次行ってみよう、ってことでしかないんじゃないかと思う。

だけど、成長だとか自己実現だとかいう言葉で言いかえる癖がやめられないんだと思う。

また、数値化するのも悪い癖じゃないだろうか。

この前、新人のOJTをしている若手の電話が聞こえていたけれど、午前中何をしていた、成果はどれくらい、効率はどう、と自分が新人の頃は聞かれなかった感じで、仕事の内容を詰められていた。

秘密警察の尋問じゃあるまいし、がたがた細かいことを五月蠅いなぁ、と思って聞くとはなしに感想を持ったけれど、仕事の過程を数値化することで、仕事のやり方が上手くなったり、効率が上がったりする、って思う数値化信仰も、やめられない悪癖のひとつなんだろう。

そんな悪癖に囲まれて暮らすのは息苦しくて堪らないから、仕事の帰り道は酒が飲みたくなってしまう。

小一時間、酒を呑んでぼーっとして、ちょっとふらつきながら電車に揺られて、たぶんこれも他の人から見たら悪癖の一つなんだろうけれど。

楽しい話をしよう

日々過ごす中で、負の方向へと引っ張っていくものがあって、それが避けられない時は仕方がないなと付き合うのだけれど、それのせいで何だか晴れない気分が続いてしまうことがある。

病んでいる状態ではないのだけれど、黒ではないけれど白でもない何かちょっとくすんでいないかっていうような、でもそれは白と黒との間だから灰色だよね、というような一次元の尺度でもなく、青みがかっているのか黄ばんでいるのかそれすらはっきりしない、というと分かるだろうか。

分からなくても良いのだけれど、そんな状態で何かしようとしても今一つ身が入らなくて、手当たり次第始めてみては止めてみて何かをするのも何もしないのもしっくり来ない。

考えないようにしようとか、気にしないようにしようとか言うことではなくて、何をしててもそれがうまく進まない何かがいる。

こういう時は楽しい話をしたいと思う。

ただ単にくだらない話や、単純な面白い話だとか、楽しい話が無いものか。