日々のぼんやり

何か書いてみる。書いてから考える。

事も無し

資格試験の勉強をしているので、読書を中断している。

本を読まないと無性に本が読みたくなるが、参考書を読んで紛らわせている。

そんなことまで取った資格が何の役にも立たないことは分かっているけれど、資格を持っていることで私という人間を良いように誤解してくれることは確かだと思うと、取っておいても良いかと思う。

仕事は資格じゃないよ、と訳知り顔で言う人も多いが、資格を持ってない人が言うのと、資格を持っている人が言うのでは全然意味が違う。

もっとも資格は凄いし、仕事もばりばりしているようなのに、そんなことも知らんの?という人もいる。

結局は全部ができる人なんていないし、それぞれの凸凹が違っているのは当たり前だけれど、それを指摘したところで何も生まれない。

何も生まないのに、マイナス面にだけ目が行ってしまうのは、止められない悪癖だと思う一方で、悪い方に目が行く、リスクを察知しようとする、というのは人間の脳の古い機能の一部なのだという話は、何かの本で読んだことがある。

脳のせいにして話を終えるのも手だけれど、能天気に暮らしていられたらそりゃ幸せだよね、とも思う。

それにしても本が読みたい。

 

ダークサイドオブザムーン

何のタイトルだったか覚えていないし、検索する気もないけれど、周りの人間、通りすがりの人間の気に入らないところばかりを見てしまう。

そんな事を考えても詮無いのに、欠点をあげつらってしまいたくなる。

それが真実かどうかよりも、そういう見方から抜け出せなくなっている自分の問題だ。

腐った人間なら腐らせておけばいい。

更生を手伝う義理もないし、指摘してマウントを取りたいわけでもないし、コミュニケーションしても胸糞悪いだけだろう。

みんなに見える側の自分ではない方の自分が、いつまでも頭の中に居座っている。

反芻

たぶん悪癖だと思うのだけれど、ネガティブな感情を反芻してしまう。

ふと、悲しみを思い出し涙し、怒りを思い出し震え、混乱の中にある頃を思い出そうとしている。

なぜそんな事をするのか、自分でも分からない。

何か直接結びつくような出来事があったわけでもない。

たぶんこれは脳のバグのようなもので、一定時間なのか、一定の頻度なのか、現われてしまう事象なんじゃないかと思っている。

そのことについて誰かと話したことも無いし、相談する相手もいないし、ましてやAIにわかる話でもない。

悩んでいるわけでもなく、どうにかしたいと思っているわけでもなく、そのネガティブな感情の反芻が放つ甘美さを、心のどこかで味わっている。

blog:g:4207112889936507152:banner]

雑な記

何年振りかの教育係がようやっとお役御免となった。

まぁ、新人でもなく教育が必要ということは、推して諮るべしであり、これは自分のスキルが認められているという話ではない。

端的に言って、汚れ役だったり、憎まれ係だったりするのかな、とも思うけれど、それはあえて口にしない。

集団の中にはそこからはみ出す人材もいて、組織の管理者たちはノーマライズを試みはするものの、そこにばかりコストをかけるわけにもいかず、暇そうなところに任せておけばいいか、と考えてるんじゃないかと邪推もする。

なんちゃらハラスメントが日々生み出されているのだから、指導という名の矯正より、自発的に方向転換するような圧力が好まれている。

あぁ、またですか、と思いつつ、本音と建前の間で、言わなくていいことは言わないぐらいの分別は、何度も痛い目を見て学んだつもりでいる。

世代の違い、経験の違い、時には性別の違い、様々なパラメータを調整して、コミュニケーションを図っても、集団からずれてる人間の心の底は見えやしない。

本音で語ろう、とか、能天気なことを言ってるうちは、1on1ミーティングが本音コミュニケーションの悪質なパロディであることに、気づいていない。

マジョリティのコミュニケーションが通じないから、集団から外れていると見なされているので、そこで同じことを繰り返すのは、使えないマニュアルを握りしめてるだけだろう。

もちろん本音を引き出すことが目的でもないし、分かり合いたいと思ってるわけでもない。

ここは仲良しサークルでもないし、友達作りに会社に来てるわけでもない。

恐ろしいほどの生産性の低さを、なんとか上げろというのが、教育係としての仕事である。

数々の管理者が匙を投げた、見たこともない逸材を、どう料理するのかということなのだが、当然ながら、最高の一皿をお出しします、なんて無謀な挑戦ができるほど若くもない。

自分が集団側のマジョリティで、ノーマル人間代表を自認しているわけでもない。

だが、ある集団のもつ共通の言語、文法に則って測られる成果の正規分布の外れ値は、言語や文法といった集団のお約束が守れていないと考えたほうがいいし、そう思っている自分でもそれらのお約束に納得はしていない。

そんなこんなな日々については、どこかで文章のネタにしていこうと思う。

まずはここから。

あの頃

あの頃のぼくらはただの子供で、ろくに考えもしないで過ごしていた
その頃の大人達に見守られながら、走ったり笑ったり気ままに暮らしていた
いつしか子供は大人になり、大人は老人になって、ぼくらは老人たちを見守るようになる
けれどいつまでもぼくらは子供のままのつもりで、ろくに考えもしない
今という時間が変わらず続いていて、いつまでも見守られているようなつもりでいる
見守られているようなつもりでも、本当はあの頃の大人たちを見守らなければいけないことは、うすうす気がついている
気がついているけれども見ないふりをして、あの頃の子供のふりを続けている
幾重にも重なったベールの下で、あの頃のぼくらは相変わらず

大人になりたい子供、子供に戻りたい大人

早く年を取りたい子供だった。

子供の自分がもどかしくて、恥ずかしいと思っていた。

子供のできることは限られていて、面倒な事ばかりで。不自由だと思っていた。

第一、学校に行かなくてはいけないのが面倒だったように思う。

だからと言って、積極的にサボりたい訳でもなく、「〜でなければいけない」というのが窮屈に思っていたのではないかと思う。

勉強は嫌いではなかったので、それなりに成績も良かったが、運動は苦手だった。

自分のイメージするように身体が動かない。

それは、練習不足だったり、身体を鍛えていないからに他ならないが、そんなトレーニングには興味が無かった。

勉強も分かるものは分かるが、分からないものは興味がなかったような気がする。

努力とか根性とかが流行っていた時代だったが、それが全く分からなかった。

根拠のない全能感があったのかもしれない。

あるいは、大人から言われる可能性を、既得の能力に勘違いしていたのかもしれない。

大人になりたい子供だったと思うが、明確にどんな大人になりたいとか、尊敬する大人とか、そういうイメージは無かったように思う。

子供でいることに違和感があったけれど、さて大人になってどうするのか、全く分かっていないという子供だから、大人からみたら子供らしい子供なのだけれど、それもまた嫌だったように思う。

だから、子供の頃は良かった、あの頃に戻りたい、子供は純真だ、という話は、嘘だと思っていたし、クソ喰らえと思っていた。

アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」に幼児期を賛美する行を読んだときは、ちょっとがっかりした。

大人になりたい子供は、そのまま大人のようなものになってしまい、大人のようなふりを続けている。

子供に戻りたい大人の気持ちなど分からない。

泣く人

電車の中で泣いている人を見た

地下鉄のつり革につかまって本を読んでいたら、前に座っている人がスマホを見ながら、涙をこらえていた

濃いめの化粧で武装した中年女性

自分と同世代か、少し下かも

左手にスマホ、右手に缶ビール

ビールを持った手の空いた指で、目尻を押さえて落涙を堪えている

何があったのかは知らない

もしかすると、お涙頂戴ドラマを見ながら、早めの一杯を電車の中で始めていたのかもしれない

あるいは、忘れかけた頃に酷い仕打ちのメールでも届いて、呑みながら復讐を検討していたのかもしれない

世界の果てのような遠いところから、他人には計り知れない悲しい知らせが届いたのかもしれない

ただ、涙をこらえ、ビールを時々口にする

夜の混雑した地下鉄のロングシートの隅で、その人は泣いていた

そんな姿に少し心を動かされた