あの仕事に必要なのは、知恵だったのだろうかと、後から思い返す。
知恵というほどのものでもないような気がする。
例えば、勘が当たる。
そこには、知恵があったのか、と考えてみる。
ダイレクトに結びつく知恵ではないが、何らかの推測はあるような気がする。
推測が超自然的な能力ではない以上、そこには知恵的なものがあるのではないか、とも考える。
あるいは記憶。
しかも明確でない類の記憶。
安易に無意識とは言わない。
そう考えると、パターン認識のようなものかもしれない。
あるいは、ゲシュタルトといっても良いものだろうか。
事物を認識するためのフレームワークから導き出される推測のようなものが勘と言われるものの正体ではないだろうか。
一方で、新しいことに対して、どうやったら解決できるか、という課題は正解がある前提に立っているような気がするが、正解などなくて、その時の最適解があるだけなのだろう。
最適解が困難であれば、次点解でも構わないが、何が最適解かは、おそらく後にならないとわからない。
だが、解を探しだすのではなくて、そこにあるという感覚は何だろう。
そこには経験からの推測が混じり込んでいないか。
暗黙知などではなく、経験からの類推に過ぎない。
そして今となっては、結局、知恵ではないだろうという感覚は、正しかったのだと思えるようになった。
結局、烏合の衆の中で暮らすことだった。