日々のぼんやり

何か書いてみる。書いてから考える。

しゃべりすぎ

たぶんしゃべりすぎている

別にしゃべる必要のない時間もSNSを見て言葉を発している

声に出さなくてもしゃべっている

しゃべりすぎているから考えている余裕はない

余裕がないからつまらない揚げ足をとったり、重箱の隅をつついたりする

しゃべらなくなれば良いわけではない

考えているときだってしゃべっている

絶えずしゃべっているけれど、誰かに向かってしゃべっている時間が長すぎる

自分に向いていない

他者との関係性の言葉でしゃべっている

絶えずしゃべっている相手はどこにもいないけれど、自分ではない誰かだ

顔が見えるようで見えない

むしろ見る必要なんかない

だって自分じゃないし、名前の知っている誰かでもない

そんなおしゃべりは止めて、少しは月でも眺めてみたらどうだ

耳を澄ませて町の音の隙間を聞いたらどうだ

横丁から漂う中華料理と安酒の匂いとすれ違う女の化粧品の匂いに場末の叙情でも見出してみたらどうだ

やっぱりしゃべりすぎている

 

経過観察

発症日をZero日として5日間は経過観察の日々

とはいえ、もう昨日から自覚症状は全くない

熱も咳も喉の痛みも無く、あれだけあった倦怠感は嘘のように無くなった

全くの平常運転なのだけれど、発症2日前から5日後まではウィルスの拡散が多いらしい

自覚症状の有る無しに関わらずなのか、その辺りはたぶん細かくは分かっていないのだろう

この何年かのデータの蓄積からそうなっているんだと思う

発祥の2日前に何をしていたかというと、友人たちと居酒屋で飲んでいたが、幸いなことに、友人らは発症していない

いつ感染したのかと、更に遡って思い出す

こういう時にGoogle Mapのタイムラインは便利だ

だが、このところ大した寄り道もしていない

立ち飲み屋に1回行っているが、お互い距離を取っていた

勤務中にマスクを外していた際に、近くでリモート会議をしていた若手だろうか

あとは、通勤時の電車の中ぐらいだろうか

まったく、いつ感染するかも分からないご時世だが、世間で言われているより遥かに軽く済んだのは基礎体力があったおかげだろうか

これは両親に感謝するしかない

陽性

とうとうコロナに感染した

人混みは避け、電車や密閉空間ではマスクをしていたが、それでもかかるときはかかるものなのだな

なんかちょっとふらつくような感じがあったのが木曜日の夜

寝不足から来る疲れかと思い、早めに寝た

それで開けて金曜日は、まぁ週末だし、行けないこともないだろうと、出勤したものの、だるさがどんどん酷くなってゆく

お昼を食べながら、食べきれないかもとさえ思った

なにがどうというわけではないが、とにかく倦怠感が凄い

仕事は流す感じに留めて、注意を要するようなことは避けた

帰ってくると倒れ込むように寝床へ

熱を測ってみたら38℃を、超えている

思い当たるようなことが無い

水曜日に酔っ払って汗だくになりながら歩いて帰ったことだろうか

咳も出ないし、喉の痛みもほとんど無い

高熱と倦怠感、たまに頭痛

土曜日に発熱外来のある近所の医者へ行った

もしかしたらコロナかも、と思いつつ、聞いてるような症状がほとんど無い

聞けば、インフルエンザもコロナも流行っているという

両方の検査をして、結果を待つ

インフルエンザは30分ぐらいで陰性と出た

コロナの検査結果は翌日になる

試験管のようなものに唾を貯めてくださいと言われる

暑くて喉乾いてるのに、なかなかハードルが高い

それでも、とりあえず提出する

結果は翌日曜日に電話で知らせるという

日曜は休診なのに対応してくれるのは有り難い

処方箋ついでにドラックストアでアイスを買う

だが、アイスとチョコの旨さが今一つな気がする

以前、インフルエンザに罹ったとき、うどんを食べに行ったら、変な味に感じたのをちょっと思い出す

とりあえず家庭内隔離状態

だらだらと過ごすしか無い

読書とネットコンテンツの徘徊がはかどる

難しい本は読む気にならないが、軽めの本や動画や簡単な検索、そしてブログのチェック

果たして結果は陽性となった

家族に伝え、直近で飲みに行った友だちに伝え、会社のチャットに流す

相変わらずほとんど咳も出ないし、喉の痛みも聞いているほどではない

大声を出した翌日、或いは呑みすぎた翌日のような違和感程度だ

4日目ともなると、もう熱のピークも過ぎたようだ

とりあえず容態が急変しなければ、これだけのような気がする

まだ、気は抜けないけれど

 

 

それでも続く

あることに全く飽きている自分がいて、一方で社会性を保つためにそれを続けている自分がいる。

好きなように生きればいいのにと思ってる自分がいて、周りに気を使っている自分がいる。

いつだって自分は自分ではなくて、幾つかの自分の中から、その時に相応しそうな自分が顔を出している。

何かしようかと思っている時に、それをしようとする自分と反対する自分と他のことがしたい自分が争っている。

いつだって混乱したままだし、道はまっすぐじゃないし、どこに続いているのか分からない。

それでも時間は過ぎるし、日々は続いてゆく。

今日も暑くなりそうだ。

カウントダウン

ふと考えた

あと何年生きられるのだろうか

と書くと、まるで余命宣告を受けた人のようだが、いたって健康で特に悪いところも無い

だがいつだって死はすぐ隣にいてふとした拍子にそっち側へひょいと移ってしまうものなのだと子供の頃から知っている

そのふとした拍子が予測可能な、例えば病気になるとして、どれぐらいで死んでしまうのだろうかと考える

今は予兆が無いけど誰もが罹りそうな病気と言えば癌だろう

いつ罹るか分からないけれど、今のところ予兆は無い

癌にかかった方の標準寿命というデータがあった

ganjoho.jp

50代で癌にかかった場合、状態が良ければ40年、悪ければ26年、中央値としては34年、という見方らしい

残酷なことに、60代では17年~30年、70代では10年~21年となる

10年経ったら10年短くなる

これがヒトの生物としての寿命というもののリアルな数字なのだ

もう一つ、健康寿命というのがある

www.e-healthnet.mhlw.go.jp

これで見ると、男性の健康寿命は72歳である

日常生活に制限の無い、今と同じようにふらふらと呑みに行ったり、珈琲やアイスを気兼ねなく味わったり、好きなだけ夜更かししたり、医者には1年に1回ぐらいしか行かなかったり、という生活ができるのは72歳ぐらいなのだ

今と同じような生活を続けられるのは17年

余命としては26年

何も考えずに好きなことをしていられるのは15年ぐらいか

残りの15年どう過ごすか考えて、15年経ったら寿命のことを考えれることにするか

 

酔う

人は酔うものが好きで、クスリにしろ酒にしろ、酔って現実を忘れたがる

それがやがて中毒となって、止められなくなる

その中でも中毒性が高いのが観念で、これを手放すことができない

いちど観念に囚われてしまうと、何もかも合点がいって、物事が上手く回りだす

自分を困らせることは消え去り、大きな力を手に入れたように思う

だが世界は何も変わっておらず、ただ仕切りの中が世界の全てのように見えている

仕切りを決めているのも自分だし、うまく言ってるように見えているのも自分

つまりどう見えてるかは、どう見たいかという問題に帰着する

どう見たいのか、何を見たいのか、それに従わせるのが目的なのか

やっぱり分からない

一つの枠組みを作ってその中でくるくると踊ることが評価というのだろうか

そのパフォーマンスが許されるのは約束事の上に成り立つ共同体の中だけだ

ではムラを出て君は何処へ往くのかね

そんなのは大きなお世話で、気持ち悪さに耐え難いのだからもっと風通しの良いところへと向かうだろうしそれは君たちには関係の無いことだ

再会、そして

久しぶりに高校の同級生と呑んだ。

昔話に花を咲かせ、最近どうよ、という話。

仕事も、趣味も、家族も、そういえばあいつどうしてるという話、呑みに行く店の話、そして終活の話になる。

もし自分の人生があと10年だとしたら何がしたいか、なんて話をする。

音も気配もなく死は近づいていることをただ感ぜずにはいられない年齢になったことを、不意に実感する瞬間。

それは自分自身への問いでもある。

明日には終わるかもしれないし終わらないかもしれない、あと10年かもしれないし、15年かもしれないけれど、50年ではないだろう。

その限られた時間の中で、何をしたいのか。

本当にやりたいことの優先順位は何か。

会っておきたい人はいないか、やり残したことは無いか。

だがそれは年齢は関係なくて、いつだってそうだったのに、そうは思っていなかったという事なのだ。

いつでも本当に大切なことは忘れている。

だが一瞬一瞬を絶えずそんな風に生きていたら、意味の重さに耐えられない気がする。

意味の重さに耐えられないから、毎日をくだらなく、気づかないふりをしていくことに決めたような気がするけれど、そのこと自体も忘れてしまっているのだろう。

ただ、懐かしい人と再会して呑みに行くことは、楽しいことだ。

ただそれだけで良いじゃないか、とも思っている自分がいる。

くだらなく、ただ無為に暮らしていく、そんな話を大学生の頃にも友人としてたっけ、そんな気もしてくる。