日々のぼんやり

何か書いてみる。書いてから考える。

新年のぼやき

新年早々に大地震能登半島で起きて、羽田空港で痛ましい航空機事故が起き、知っている場所で通り魔や火災が起きたかと思えば、爆破予告騒ぎもあった。

それぞれがそれぞれに大変な目に遭って、苦しんでいる人、悲しんでいる人、あるいは何とか力になろうとしている人、実際に力を尽くしている人もいると思う。

そんな状況だから、何かをしなければいけないと考えてしまう人もいれば、自分の名を売るチャンスとばかりに役にも立たない、むしろ邪魔なのにあたかも自己犠牲に徹したかのようにSNSで発信する輩もいる。

あやふやな情報を拡散したり、デマや流言飛語を垂れ流す輩もいる。

日々起こる不幸な出来事に対して、陰謀論を唱えたりする噴飯ものの言説は、すっかり見慣れた季節の風物詩的なものになった。

そこに責任論を絡めて誰かを貶めたい言説もまた同じく飛び交っている。

事故は事故であり、そこには人為的な意図はないけれど、現象の因果関係があって、何らかのシステム的な不具合やヒューマンエラーがあったのは明白であったとしても、そこには意図が無いにもかかわらず責任を求めるのは、どんな細かいところにでも自ら権力をふるいたい病に取りつかれているのだろう。

地震によって道路が寸断され、社会インフラが破壊された、と思われる地域へ、「NGOの声を聴くために」現地入りした政治屋SNSで発信しているのを見かけたが、今までも貧困層や老人、障碍者を食い物にしているのが透けて見える活動と同じ、筋の通ったやり口に呆れて、開いた口が塞がらないとはまさにこのことだなと思った。

ともあれ人の営みというものは、かくも悲しくも哀れで卑俗なものなのだと思わざるを得なくて、なのに一方で何百年何千年という時間を経てもなお、多くの人の心を動かすことのできるモノを作り出すこともできるというのは、矛盾でもあり本質なのかもしれないと思っている。

目を閉じて耳を塞ぎ世界の悲惨から逃れたいわけではない。

全てを見てすべてを聞いてもなお眉の一つも動かさずにただ平穏な日々を過ごして必要なときには口ではなく金を出せるような人物になりたいと思っている。

私的忘年会

職場での忘年会が無くなって久しいが、今年も公式な忘年会は無かった。

それがどうということは無いが、季節の風物詩が一つ無いような、パズルが1ピース足りないような気がするのは、気のせいではない。

私的忘年会と称して、ひとり呑みに行くことにした。

独りで楽しむと考えたら、日本酒が旨い店が良い。

歳を取ったせいか、やはり日本酒が一番好きなんだと最近思っている。

香り、舌触り、喉越し、どれもがしっくりくるのは日本酒だったようだ。

日本酒好きだからといって、純米大吟醸が好きだという訳でもない。

むしろ純米酒のべたべたした感じがちょっと苦手で、むしろ本醸造の方が旨いと思う。

仕事が早く上がれた日に、ふらっと立ち飲み屋に向かう。

まだ6時台のせいか、すんなり入れる。

そんなに広くない店だが、立ち飲みなので、狭くは感じない。

入口近くのテーブルを案内され、荷物を置いたら、カウンターで酒を注文する。

受け皿の上に置かれたグラスになみなみと日本酒を注いでくれる間に、あてを選ぶ。

あてはレンジで温めて、テーブルに運んでくれるので、グラスの酒をこぼさないようにテーブルまで運ぶ。

日本酒の一口目は、グラスを置いたまま口を近づけて迎えに行く。

香りが鼻に抜けて、舌に水のように広がる。

しばらく余韻を楽しんで、二口目はグラスを持って口に近づける。

やっぱり美味い。

そうこうしているうちに、温められたあてが届く。

酒とあての関係は、飲み物と食べ物ではないと思っている。

日本酒はそれだけで十分に美味いし、あてはあてで美味い。

例えば、ハンバーガーとビールは、ハンバーガーとコーラに置換可能だけれど、ハンバーガーと日本酒には置換できない。

酒を味わって、あてを味わって、外を眺めたり、点いているTVの画面を眺めたり、スマホをいじってみたり、何かしているようで何もしていない、何もしていないようで酒を味わっている、そんな時間が過ぎてゆく。

別に誰かと話したいわけでもないし、がつがつと何かを食べたいわけでもない。

この頃、ようやく自分なりのひとり呑み、という時間の使い方を知ることができたように思う。

別の日に、久しぶりに友達から連絡が来る。

忘年会でもやろうという。

駅で待ち合わせて、夜の街へと繰り出す。

だが、このトップシーズンに飛び込みで入れる店なんて少ない。

何軒か入れず、結局、行きつけの店に友達を連れて行った。

同い年の初老の男同士で話すことと言えば、定年後の生活の話と健康の話になった。

それぞれがそれぞれの問題やら悩みやらがあって、ともあれ生きていかなければいけない、ということなのだ。

別に愚痴をぶちまけるわけでもなく、自慢やマウントやそういったものとは無縁で、ただただそういったなんてことない話を2時間も話していた。

独りで呑みに行く店に、友達と長居したのもまた新鮮だった。

誰かと呑みに行く、というのも、夏以来だったし、忘年会も何年ぶりだったか。

 

君が思うほど君は…

お里が知れる、という言い方がある。

ふとしたことでその人の人となりや、育ちの良し悪し、度量の深浅、そういった中身がわかってしまうよ、という言葉だと理解している。

本人に行くべき言葉でもないし、真面目に説教する言葉でも無いんじゃないだろうか。

なぜそんなことを言い出したかというと、まさにお里が知れるような発言をする人が意外と近くにいたな、ということがあったからなのだ。

以前は学校や会社からのつながりから広がっていったから、わりと似たような境遇だったり、価値観が近かったりしたような気がするし、つきあいの時間の中で淘汰されていくので、最近知り合った人の発言というものに驚かされるのは当たり前なのかもしれない。

簡単にいろんな人とコミュニケーションができる便利な世界では、人となりが見えにくくなってしまって、ふとしたことで驚かされるのかもしれない。

分かったつもりになって分かっていないし、知ったようなつもりは思い上がりなのだろう。

それはそうなのだろうけれど、やはり驚かされる。

ある人がとある集団から去り、そのことを良いことだと言ったり、茶化して嫌味を言ったりする人は、いったい今までどう思っていたのかが推し量られるし、自分もそう思われているかもしれないと思ってしまい、その人とはあまり関わりたくないなと思ってしまう。

いなくなった人の悪口を言う人は、自分がそこにいない時には悪口を言っているのだろうと思う。

いままで普通につきあいをしていた人が、その人がいなくなった途端に掌を返したように悪口を言ってるように思ったけれど、元々、悪く言っていたのを、ただ単に気づいていなかったのかもしれない。

そう考えると、お里が知れるのは、そんな単純な自分の方だったのかもしれない。

まぁ、ただ言えるのは、気分の良いものではないということだろう。

読んだつもり分かったつもり

今週のお題「最近読んでるもの」

本についてはメインブログのほうで、実際何を読んだか書いているので、同じようなことは書かなくてもいいかと思ってる

でも、読んでから書いているので、なぜそれを読もうと思ったのかは書いてあったり書いてなかったりしている

本を読む理由というのは、幾つかあると思うのだけれども、何かを知ろうとして読む本は、既に自分の中にある答えとの答え合わせに過ぎない

10%でも20%でも前提となる何かしらの知識を持って、こうなんじゃないかと思っているから、あ、やっぱりそうだったんだ、とか、あれ?全然違うじゃんという感想が生まれてくるのだろう

本当に真っ新の状態で本を読んでしまったら、たぶん荒野を彷徨うようなものだ

地図を持たなければ、本の中で遭難してしまう

しかし一方で、地図に頼り過ぎて読み進めてしまうと、読んだつもり分かったつもりになってしまう

あぁ、なるほどそうだよね、分かってる分かってる、と思ってページを繰るのが早くなるのは要注意

自分の場合、実用書の類がその危険性が高くて、ビジネス書は特にそうなりやすいような気がしている

最近はそんなビジネス書やら実学的な本が続いたので、読んだことのない言葉に惑わされて、地図の通用しないところに連れて行ってくれる本をそろそろ読んでみたいと思っている

荒む

とある日の出来事。

他の人のサポートで文書を作った。

突貫で間に合わせて、軽くレビューもしてその人に渡した。

その一日後

「この前の文書、あれから変更があったので直してくれない?」

「良いですよ」

「経緯はチャットで見てもらってる通りなんで」

「…あ、はい」

(この時点で、怪しい)

それでも突貫で直して、再度、引き渡し。

「あれなんだけど、間違ってる。うーん、時間無いんでこっちで直しときます」

「…あ、はい」

いやいや、俺は手伝っただけなんだが。

それ、本来はあなたの仕事でしょ?

こっちで直すとか、それは違うんじゃない?

こういうところから心は荒んでいく。

 

 

ここではない

ここではない、という感じ。

いつもではないけれど、昔から時々やってくる。

居心地の悪さ、というか、今ここにいることへの違和感のようなものは、もういい加減に諦めたほうがいいのかもしれない。

だが、何を諦めるというのか?

今ここに対する違和感とは、つまり何に期待をしているのか、一体どんなところでどんな時間を過ごしていることを期待しているのか、という問いになる。

その問いに対する答えは、今ここではない、いつかどこかのイメージに収斂し、それを志向することが違和感の解決だと考えることもできる。

目標があれば頑張れるというが、違和感を反転して目標にすり変えたところで、目標の達成にはなったとしても、違和感の解決にはならないだろう、と思っている。

では、違和感そのものを違和感のままにして、解決を放棄すれば良いのだろうか。

今ここに至る因果関係を洗い出して、分岐点のたらればを追求すれば、違和感は解消するのだろうか。

たぶんこの違和感の追求は、イデオロギーや教条がつけ込む隙で、主義や宗旨の闇に繋がっているのだろう。

そんな事を考えて雨の中を歩いている。

 

22世紀

子供の頃、21世紀は遥か遠くの未来のような気がしていた。

20世紀という悲惨な世紀が終わり、新しい時代が訪れるという暗黙の理解があったと思う。

テクノロジーの発展が生活を豊かにして、その他の困難を解決する、という夢を見ていたのだろうと思う。

実際はどうだったのか。

テクノロジーは急速に発展し、生活は豊かになったけれど、困難は解決などしなかった。

良いことも悪いことも、次のステージへと上がっていった、もしくは、手を変え品を変え、新たな困難が発生したのかもしれない。

なんか思ってたのと違うようだけれど、確かに便利で快適になっているのだから、やっぱり21世紀は訪れたのだろう。

もうすぐ四半世紀を迎えようとしているが、22世紀について誰か夢を見ているだろうか。

たぶん同じ文脈では語れない。

想像しうるものは夢を見るに値しない。

良いことも悪いこともまた、次のステージに上るのは正しいかもしれない。

19世紀の人々は20世紀をどう想像していたのだろうか。

18世紀の人々はどうか。

17世紀は?

世紀という単位で未来を語るようになったのは19世紀辺りだろうか。 

平坦な日常の延長にある22世紀は、相変わらずご飯に納豆をかけているに違いないと思う。

何か特別な日は、焼肉か寿司でも食べているだろうけれど、もしかすると車は変わっているかもしれない。

まぁ、そこには自分はいないのだが。