お里が知れる、という言い方がある。
ふとしたことでその人の人となりや、育ちの良し悪し、度量の深浅、そういった中身がわかってしまうよ、という言葉だと理解している。
本人に行くべき言葉でもないし、真面目に説教する言葉でも無いんじゃないだろうか。
なぜそんなことを言い出したかというと、まさにお里が知れるような発言をする人が意外と近くにいたな、ということがあったからなのだ。
以前は学校や会社からのつながりから広がっていったから、わりと似たような境遇だったり、価値観が近かったりしたような気がするし、つきあいの時間の中で淘汰されていくので、最近知り合った人の発言というものに驚かされるのは当たり前なのかもしれない。
簡単にいろんな人とコミュニケーションができる便利な世界では、人となりが見えにくくなってしまって、ふとしたことで驚かされるのかもしれない。
分かったつもりになって分かっていないし、知ったようなつもりは思い上がりなのだろう。
それはそうなのだろうけれど、やはり驚かされる。
ある人がとある集団から去り、そのことを良いことだと言ったり、茶化して嫌味を言ったりする人は、いったい今までどう思っていたのかが推し量られるし、自分もそう思われているかもしれないと思ってしまい、その人とはあまり関わりたくないなと思ってしまう。
いなくなった人の悪口を言う人は、自分がそこにいない時には悪口を言っているのだろうと思う。
いままで普通につきあいをしていた人が、その人がいなくなった途端に掌を返したように悪口を言ってるように思ったけれど、元々、悪く言っていたのを、ただ単に気づいていなかったのかもしれない。
そう考えると、お里が知れるのは、そんな単純な自分の方だったのかもしれない。
まぁ、ただ言えるのは、気分の良いものではないということだろう。