日々のぼんやり

何か書いてみる。書いてから考える。

夜に歩く

夜に歩く習慣が続いている。

途中下車をして別の駅まで1時間ほど歩く日課である。

途中で何か食べたくなって店に寄ったり、珈琲を飲みながら本を読んでみたり、時にはスマホで写真を撮ったりする。

遊んでいると言えばそうなのかもしれないが、何もしていない時間、無為の時間だと思う。

見慣れた道を辿ったり、見慣れない道を通ったり、立ち止まったり立ち止まらなかったり、ただ信号だけは守ることにしている。

歩きながら考えてみたり、音楽を聴いたりする。

考えはまとまらないことも多いが、ちょっとスマホのメモに短くメモをしておいたりする。

こうして歩けるのはいつまでだろうか、ともふと考える。

企業という組織に属して金を稼ぐことへの代償として、無為の時間が必要になっている、というのは20代の頃から薄々感づいてはいたことだ。

それは家族や友人や恋人との時間とは全く異なる。

そりゃ、他者がいないんだからそうだろうよ、という話ではない。

社会という枠組みへの参加窓口として、企業に勤めるサラリーマンという手段を取ること、そのため無為の時間が生まれているという因果関係は、企業に勤めなくなったら無為の時間も消滅することを意味する。

年がら年中暇になったら、無為の時間など存在しない。

一日を様々な役割で色分けした結果、残った部分のようなものではあるが、それでは言い足りていない。

ふらふら歩きながら、サラリーマンという役割を降りた時のことを考える時がやってきたのだとぼんやりと考える。

村上春樹の小説の登場人物ではないが、35歳を越えて人生の折り返し地点を回り、そこから死に至るまでの緩やかな下り坂が、ここにきて勾配がきつくなってきたのではないかとも考える。

ここで不意に倒れて行き倒れたらいったいどうなるのか。

20代の初めに自分らの死に様について、友人と酒のつまみに語ってたのが懐かしい。

今でもそんな話ができるかどうかは怪しい。

人気の無くなったオフィスの窓を眺めながら、もしここに再雇用されたらどうだろうかと考える。

道路工事の交通誘導員を見て、それは自分にできる仕事だろうかと考える。

居酒屋の灯りを見て、酒が飲めるのはいつまでだろうかと考える。

今までできていたことが少しづつ劣化して、やがて諦める時がやって来る。

高校生の頃は10kmマラソンはできたが、今は数百メートル走れるかも怪しい。

走り出したとたんに足がもつれて地面に叩きつけられるとも限らない。

様々な事が掌から零れ落ちる砂のように少なくなっていきやがて死の入口に到着するのだろう。

その先は知らない。