此処がどこで今がいつなのか、ということを考えると、良く分からなくなる。
昔の漫画か何かで「ここはどこ?私は誰?」というセリフが流行ったことがあったが、それに答えるのは実は難しいのではないかと思っている。
地図的な座標軸で答えること、カレンダーの日付、時計の時間で答えることは、ただ単に数値化しているだけで答えではない。
此処がどこなのか、どうでもいいことさ、どうやって来たのか忘れられるから、と嘯いてたのは細野晴臣の「恋は桃色」である。
此処という場所は、此処ではないところと水平の関係があって、此処に至るまでの自分の意識の垂直な時間軸が交わっている。
だから、此処を説明するには、此処で無いところとの関係を、語ることになる。
そうすると此処という言葉に含まれている自己中心的な考えが暴かれる。
此処は此処では無い所ではない所であり、この世界の片隅の一つに過ぎない。
世界で何かが起きていても、それは此処ではないところであって、此処で起きていることはあまり関係が無い。
そんなことは今に始まったことでも無いけれど、いつからそうだったのかも分からない。
だから、今という時はずっと前からあったような気もするし、あの頃は違ったような気もするし、これからは違うような気もするけれど、やっぱり同じような気もする。
それは意識の問題であって、私にとっての此処と今は、あなたにとっての此処と今とは違うのだと考えると、どこかの誰かが答えてくれることではないと思うと、やはり自分で考えるしかない。
出した答えも、私の答えであってあなたの答えではない、と思うのだけれど、果たしてそうなのかは、いま一つ疑問がある。
それはそうであってほしいという願望のような気もするし、何もわかっていないからの答えのような気もする。
こんなことが書きたかったのだっけ?