日々のぼんやり

何か書いてみる。書いてから考える。

理解し得ない

理解できない類の人がいる。

どうしてそんなことが言えるのか想像がつかない、どういう発想なのか良く分からない、と思ってしまう。

それでも理解した方が良い、と思ってしまうのは、子供の頃からの道徳教育の悪影響だろう。

だが、理解できないものを理解しようとするのは疲れる。

それが、自分からかけ離れたもの、例えば古代の思想とか、異文化の習慣だとか、そういうものなら好奇心もあるけれど、その距離が近くなるにつれて、理解できそうな気がしてしまうものだから、好奇心よりも落胆が勝っていく。

言葉が通じて、環境的にも近しいと、相手も分かって当然という空気が流れる。

だが、分からないものは分からない。

分からないから切り離せるかというと、そうもいかない。

だとしたら、それは悪意なのか善意なのかで判断する。

言う事一つ一つに指摘をしてくるのは善意か、悪意か。

こちらの提案に対向案を出すのは善意か、悪意か。

何だかぼやっとしたことを言うので、詳細を質問すると、実はやってないと初めて言ってくるのは善意か、悪意か。

大抵のことは悪意をこめてなされているように思う。

そんなことないだろう、あなたのためを思って言っていることは、善意ではないのかと反論があるかもしれない。

だがそうではない。

どういう意図だろうと、伝わらないものは善意ではなく、善意でないなら悪意なのだ。

そんな悪意に囲まれていたら疲れないかと思うかもしれない。

悪意にさらされていると思うことは、ココロのガードも上がるけれど、理解し得ないものに費やす徒労よりかはましだと思う。

そうして日々は過ぎてゆく。